創成川東地区

碁盤の目として道路が整備されているイメージが強い創成川東地区ですが、どのように道路が整備されてきたのか、その歴史をたどると札幌開拓の歴史にとても関わりが深いことがわかりました。

おことわり

  • 主に北1条通~北20条通、東1丁目~東18丁目の地域を「創成川東地区」の対象としています。
  • 約100m×約100mの碁盤の目を「本府基準」と呼ぶことにします。
  • 説明の中で「大友堀」や「伏籠川」が登場しますが、「伏籠川」は時代により源流や流路が大きく変化しますので、概ね流路として考えてください。
本府基準の道路(緑)と基準外の道路(赤)

現在の道路状況としては、北1条通~北20条通まで本府基準の碁盤の目で整備されています。そこから北側は100m×150mの碁盤の目で整備されており、碁盤の目で整備された地域が広がっています。その一方で、東8丁目から東側の光星地区は碁盤の目とは対照的に「花畔札幌線」に沿って短冊形の道路が雑然と形成された地区が広がっています。さらに東側の東18丁目通や苗穂駅のある東12丁目通りは碁盤の目ではありませんが、本府基準の道路として整備されています。

明治初期(鉄道開通前)

明治初期の創成川東側には本府基準の碁盤の目がまだ3区画しか存在しておらず、まだ整備がはじまったばかりの印象があります。明治初期から既に「花畔札幌線」が存在していることが確認できます。

明治中期

明治中期に入ると本府基準の碁盤の目が創成川の東側にも広がり始めました。北8条通が新たに整備されており、北1条通、北3条通が苗穂まで延伸されていいます。現在も残るいわゆる東4丁目通のクランクはこの時代に誕生しています。また、現苗穂駅に通じる東12丁目通が本府基準の道路として整備されています。

明治後期

明治後期では北2条通と北4条通が東8丁目まで延伸され、碁盤の目がさらに北と東方向に広がっています、東3丁目通の北5条通~北8条通の間はまだ整備されていません。東2丁目に北7条通が整備されたことにより、花畔札幌線は現在と同じ北7東2に起点が変更されています。

大正初期

大正初期になると苗穂駅連絡通が東8丁目通に接続されました。現在の地図では形跡がほとんど見えない東区役所付近の「へ」の字の道路、環状通東駅付近の「エ」の字の道路が存在しており、「エ」の字の横棒に相当する道路は、花畔札幌線に対して直角でもなく、本府基準の角度でもなく、正しい東西方位で整備されています。

昭和中期

昭和中期になると本府基準の碁盤の目が北20条通まで整備が進み、そこから北23条通りまで本府基準の碁盤の目ではなく約110m×約150mの碁盤の目が整備されました。また、東8丁目から東側の道路骨格となる北15条通と北18条通が東18丁目付近まで延伸されています。全体として碁盤の目の整備が進んだものの、昭和中期でも「く」の字道路や「へ」の字道路が残っています。

土地区画整理事業で際された道流(赤)と新規整備された道路(緑)

昭和44年から昭和57年にかかて光星地区 68.7haで土地区画整理事業が施行されました。北12条通が東11丁目付近まで延伸されたものの、東8丁目から東側に碁盤の目が広がることはありませんでした。また、かつての大友堀に沿った「へ」の字道路も完全に姿を消しました。

ここまで明治初期から現在にかけてどのように本府基準の碁盤の目が整備が進んできたか見てきましたが、碁盤の目の区画として整備されていなくても、現在の東12丁目通や東18丁目通のように本府基準の道路として整備された道路があります。これは偶然なのでしょうか。

札幌本府の変遷(概念図)

札幌本府は3段階でその区域を拡大した言われています。この図はその区域の変遷を矩形で示したものです。実際の都市計画に豊平川対岸は含まれていません。

札幌本府の区域には諸説ありますが、これまで何度かふれてきた北12条通、北18条通、北20条通、東8丁目通、東12丁目通、東18丁目通と都市計画の変遷を重ねてみると、札幌本府の変遷と一致する特徴が表れてきます。

札幌本府の変遷と道路

例えば、北18条通は創成川西側における本府基準碁盤の目の北端であり、北20条通は創成川東地区における本府基準の碁盤の目の北端です。東12丁目通と東18丁目通は東8丁目から東側で2本しかない南北方向の本府基準道路そのものです。こられは何らかの基準で整備されたとしか考えられません。その基準が札幌本府の都市計画であったと考えています。

札幌区と札幌村

また、北12条通と東8丁目通は明治初期から中期の「札幌区」と「札幌村」の境界でもありました。札幌村は大正初期~中期にかけて札幌市への編入を繰り返し、昭和30年に札幌市と合併して札幌村は閉村しました。札幌村は日本の玉ねぎ栽培発祥の地として知られており、宅地化される前は広大な牧場と花畔札幌線沿いに玉ねぎ畑が広がっていました。

札幌村村域における札幌本府都市計画

札幌本府の都市計画によると、花畔札幌線と交差する一部の道路は花畔札幌線と垂直に交わるように計画されていますが、ほとんどの地域は本府基準の碁盤の目で整備する計画であったことがわかります。一方、環状通東駅の周辺は札幌村集落の町割を継承するように計画されており、東豊線が走る東16丁目通が北17条通で丁字路になる計画になっているようです。

現在の東8丁目通は本府基準から半街区ずれていますが、都市計画では東8丁目通も本府基準で整然と整備する計画になっているだったようです。もし、光星地区が碁盤の目として整備されていれば、東区役所周辺から苗穂駅からにかけては現在の桑園地区のような街並みが形成されていたかもしれません。。

昭和初期の地割(色付した地区のみ抜粋)

ちなみに、昭和初期の道路は碁盤の目として整備されていますが、地割は換地前の地区が残っています。もし、道路が碁盤の目として整備されていなければ、光星地区東部のように農耕地の地割がそのまま道路になっていた可能性があります。