札幌本府の西端となる桑園地区と隣接する旧藻岩村(山鼻村)、大通地区、西創成地区の一部はどのようにの開拓されていったのか、その歴史を辿ってみることにします。
おことわり
- 大通や創成川通と同じ角度で開拓された約100m×約100mの碁盤の目を「本府基準」と呼んでいます。
- 開拓の過程は古地図を参考にしていますが、模式的に表現されている場合があるため一部を補正している場合があります。
- 旧河川は明治から大正時代に存在していた概ねの流路をすべての時代の地図上に描いています。あくまで、参考程度としてお考えください。
- 札幌本府の道路は仲通を省略しています。
まずは、参考までに明治から大正にかけての村境を確認しておきます。
札幌本府建設が始まった明治2年から昭和初期にかけて、札幌区と隣接する村同士の大規模な合併、札幌区への部分的な編入が何度も行われていたようです。また、川を村境としているので流路が変わって村境が曖昧になることもあったようです。古地図によって村境が異なる場合もありますので、村境は参考としてお考えください。
それでは、明治時代の道路はどのような状態だったか確認してみます。
現在の西11丁目駅となる①の周辺に本府基準とはやや角度がずれた道路が存在しています。これは、明治初期に養蚕のため北1条から北10条、西10丁目から西20丁目にかけて開梱した広大な桑畑の農道のようです。
②で示した橙色の道路は山鼻屯田兵村開墾の区割(以降、 山鼻開拓と称します)基準の道路で、山鼻村の村境と概ね一致しています。この山鼻開拓基準の碁盤の目と本府基準の碁盤の目の角度ズレについては、地元のローカル番組で過去に何度も話題になっています。
もう1つ気になる道路として、 ③で示した現在北5条通から現在の札幌競馬場まで真北に伸びるたった1本の道路(以降、競馬場通と称します)の存在です。この道路も本府基準の道路と角度がズレており、北5条通から計画的に真北に建設したのかどうかもわかりません。
札幌本府建設が始まった明治初期では北5条通や北1条通、南1条通の基軸道路が整備されましたが、まだ碁盤の目として区割はほとんど進んでいません。明治中期はどこまで開拓が進んだのか見てみましょう。
明治中期になると、円山村との村境に辺りに札幌本府の西端となる西20丁目通が整備され、札幌本府の西側の骨格が整ってきました。
いくつか大きな区割りされていない地区が存在していますが、④は札幌連隊区司令部の広大な敷地、⑤は養蚕伝習所と付属農園です。明治中期まで西10丁目から西20丁目にかけて広大な桑畑だったこともあり、まだ桑畑が残っていた可能性もあります。
明治中期は西11丁目辺りまで本府基準の碁盤の目の広がってきました。明治後期はどうなったか確認していきます。
現在の西11丁目付近にあった札幌連隊区司令部が移転したことで、広大な跡地が本府基準の碁盤の目として整備されました。養蚕伝習所の場所も西17丁目通が整備されています。また、ようやく北5条通から北側に碁盤の目が広がり始めています。
気になる動きとして、桑園駅周辺の⑥で村境に対して直角に交わるような道路と、本府基準の区割と同じ角度でありながら、仲通の間隔とも一致しない道路ができています。
また、ついに札幌本府の碁盤の目と山鼻開拓の碁盤の目が衝突してしまいまい、⑦の場所では本府基準の碁盤の目に山鼻開拓基準の道路が越境しています。この道路こそ西屯田通であり、東屯田通や行啓通と並び山鼻地区を代表する商店街を形成していました。
西屯田通が本府基準の碁盤の目に越境できた理由をを示すものは探せませんでしたが、おそらくは西屯田通が先行して南1条通に接続され、その後に本府基準の碁盤の目が西側へ広がっていったと思われます。
大正後期は桑園駅周辺で本府基準ではない新しい道路が誕生するなど、何かしらの動きがあるように感じられますが、大正後期でどうなったのか確認してみます。
大正後期になると桑園駅周辺の道路が目を疑うほど激変しています。
⑨の周辺では明治初期から存在していた競馬場通を基準としたような区割が形成されつつあるように見えます。また、鉄道を基準としたと思われる赤色で示した道路が形成されており、⑧の周辺では桑園駅の駅前広場に接続する道路や、鉄道と直角に交わる道路(以降、桑園駅斜め通と称します)が誕生しています。本府基準の道路もこの桑園駅斜め通で止まっていることから、冒頭に示した円山村との村境に沿った道路とも考えられます。
旧山鼻村の村境付近では⑩で示した辺りでは、本府基準と同じ角度でありながらも本府基準とズレている道路が整備されています。また、明治初期から整備されていた山鼻村の境界に沿った道路ですが、⑪で示した辺りで本府基準の南3条通に付け替えらました。
大正後期では桑園駅周辺で本府基準ではない区割が広がっていきそうな動きがありますが、昭和初期ではどうなってしまうのか確認していきましょう。
円山町(旧円山村)との境界がヨコシペッ川となり、桑園駅周辺はすべて本府基準の碁盤の目として整然と整備されました。札幌本府都市計画にて碁盤の目として整備することが計画されていたとはいえ、大正後期に存在していた道路を残さずに本府基準の碁盤の目として整備したことに驚きを隠せません。
その一方、旧山鼻村の村境付近では⑫の場所に本府基準の区割が1区画だけ誕生したり、⑬では小学校の敷地を縫うような道路が誕生しています。旧山鼻村では⑭で示した周辺で西屯田通のすぐ裏に狭隘な道路や袋小路が誕生しています。
なぜ昭和初期の旧山鼻村で急激のこのような道路が急増したのか正確な理由はわかりませんが、山鼻村の中心は行啓通(南14条通)が中心であり、郊外(つまり、札幌区との村境辺り)には農地も多く点在していたようです。札幌市の発展により本府基準の碁盤の目に接する旧山鼻村の農地として残されていた場所が、急激に宅地化され畑道や私道がそのまま道路になってしまったのではないかと推測されます。
最後に、昭和中期で道路がどのように整備されたのかを見てみます。
昭和中期になると、現在とほぼ同じように道路整備が進みました。北大構内を貫くように⑭の石山通が延伸され、北8条通も石山通まで延伸されました。本府基準の碁盤の目に沿って⑮の西20丁目通、⑯周辺の18丁目通、17丁目通、16丁目通が整備されています。
⑰の場所にあった小学校が移転したことで、旧札幌本府の西15丁目通と旧山鼻開拓の西15丁目通が斜めに接続され、市電山鼻西線の西15丁目電停も新しい道路に移設されました。
西9丁目から西側は南3条通が旧札幌本府の南端ですが、石山通は南2条まで山鼻開拓基準の道路が越境していました。昭和中期に⑱で示したように石山通も南3条通で接続されるようになり越境が解消されました。これで、旧山鼻村境を越境している道路は先述の西屯田通を除いて存在しなくなりました。
札幌本府の建設が始まった明治初期から昭和中期までの桑園地区の道路整備の変遷を見てきましたが、札幌本府都市計画に基づいた道路整備が約50年近く続いたことに驚かされますが、昭和初期まで人口増加が緩やかだったからこそ達成できたのかもしれません。